■「ニュース0円」ネット上でのニュースの価値と使い道(nikkeibp.jp)
●やってみるとしんどいです。
以前、とあるゲームイベントを個人で取材して記事というか、現地更新をやってみた。
その時の条件は、比較的webのメディアが行っているような、現地で取材と撮影と内容をまとめるというもの。
そんで実際にやってみると、これが意外に大変なのだ。
内容としては数カットの写真と、イベントの流れを説明した文章というシンプルなもの。
これをイベント終了後に書いてみたところ、大体2時間近くかかった。
まぁ、オイラが素人だったり、AirH"の32kや遅いモバイルPCを使ってたといのもあるけ、慣れても文章をある程度考えて書くと1時間はかかるだろうなぁ。
あと、記事の上ではまとまって見える内容でも、本当に面白い内容ってのは書けないんだ。なぜかといえば、記事のバランスを崩す内容を入れてしまうと読み辛くなるし、全体が長くなりすぎるから。
その後、実際に現地で記事を書いている方と何度か話した時に、やっぱり本職の人でも速報や記事を書くのが決してラクじゃないって聞いてからというもの、記事の速さが気になっても、その事にケチをつける事はなくなってしまった。
●やってみるとしんどいです。
以前、とあるゲームイベントを個人で取材して記事というか、現地更新をやってみた。
その時の条件は、比較的webのメディアが行っているような、現地で取材と撮影と内容をまとめるというもの。
そんで実際にやってみると、これが意外に大変なのだ。
内容としては数カットの写真と、イベントの流れを説明した文章というシンプルなもの。
これをイベント終了後に書いてみたところ、大体2時間近くかかった。
まぁ、オイラが素人だったり、AirH"の32kや遅いモバイルPCを使ってたといのもあるけ、慣れても文章をある程度考えて書くと1時間はかかるだろうなぁ。
あと、記事の上ではまとまって見える内容でも、本当に面白い内容ってのは書けないんだ。なぜかといえば、記事のバランスを崩す内容を入れてしまうと読み辛くなるし、全体が長くなりすぎるから。
その後、実際に現地で記事を書いている方と何度か話した時に、やっぱり本職の人でも速報や記事を書くのが決してラクじゃないって聞いてからというもの、記事の速さが気になっても、その事にケチをつける事はなくなってしまった。
●タダの代償
今のご時勢、昔みたいにそれなりのニュースに対価を払うことが、広告の普及で意識せずに済むようになったせいかもしれないけど、あまりにも閲覧者が「無料」ってものに無意識になりすぎてるように思えてきた。
オイラは個人サイトの運営者が急にアフェリエイトやライター家業に精を出したり、SNSの熱を上げることをあまり良くは思っていなかった。
ただ、無料に対して無意識になる風潮の影響って、実はメディア企業だけじゃなくて先に個人の作り手に影響を与えているように思えるんだ。
最初は趣味や道楽で始めた事でも、それなりの影響力や実力が評価されるようになると、何らかの「賞賛」が欲しくなってしまう。
最初はあいまいな評価でも、不慣れな与えられることへの快感が、自分の中で徐々に具体化してくる。その具体化したものが広告や執筆による報酬だったり、新しい人間関係による刺激だったりしたりするんだ。
こういう作り手の心情の変化を「初心を忘れた」というかもしれけど、自分があいまいにやっていたことが、ある日突然に目的を持ってしまい、その事を達成することで「得られる何か」があらわれてしまうと、その作り手はすでに趣味や道楽の領域から出てしまった人になってしまう。
この感覚は、日々無料で漫然と眺めているだけの人が、どんなに激論を交わそうが「領域を出る感覚」は分からないと思うな。
●誰が死んだり殺されたりするのか?
ネットにしても既存のテレビや新聞にしても、商業的な面ではライトなモノが(表層的には)無料に、オタク市場的なコアな内容が有料に、今以上に流れていくような気がする。
現在のメディアも縮小するトコはあっても、これが「死んだり殺されたり」というような事はなく、先鋭化されたコンテンツに価値が集中して、市場の構造の流れが速くなるような気がする。
その代わりに、無料で腹を満たすこと慣れた人たちが、腹を満たすだけの「無料」がなくなってしまい、飢餓に襲われると思う。
多分、「死んだり殺されたり」というのは、メディアでも受け手でも、今の「無料」や「与えられるもの」に無頓着になった人たちが、自分達が招いた時代によって「死んだり殺されたり」するんじゃないかな?
今のご時勢、昔みたいにそれなりのニュースに対価を払うことが、広告の普及で意識せずに済むようになったせいかもしれないけど、あまりにも閲覧者が「無料」ってものに無意識になりすぎてるように思えてきた。
オイラは個人サイトの運営者が急にアフェリエイトやライター家業に精を出したり、SNSの熱を上げることをあまり良くは思っていなかった。
ただ、無料に対して無意識になる風潮の影響って、実はメディア企業だけじゃなくて先に個人の作り手に影響を与えているように思えるんだ。
最初は趣味や道楽で始めた事でも、それなりの影響力や実力が評価されるようになると、何らかの「賞賛」が欲しくなってしまう。
最初はあいまいな評価でも、不慣れな与えられることへの快感が、自分の中で徐々に具体化してくる。その具体化したものが広告や執筆による報酬だったり、新しい人間関係による刺激だったりしたりするんだ。
こういう作り手の心情の変化を「初心を忘れた」というかもしれけど、自分があいまいにやっていたことが、ある日突然に目的を持ってしまい、その事を達成することで「得られる何か」があらわれてしまうと、その作り手はすでに趣味や道楽の領域から出てしまった人になってしまう。
この感覚は、日々無料で漫然と眺めているだけの人が、どんなに激論を交わそうが「領域を出る感覚」は分からないと思うな。
●誰が死んだり殺されたりするのか?
ネットにしても既存のテレビや新聞にしても、商業的な面ではライトなモノが(表層的には)無料に、オタク市場的なコアな内容が有料に、今以上に流れていくような気がする。
現在のメディアも縮小するトコはあっても、これが「死んだり殺されたり」というような事はなく、先鋭化されたコンテンツに価値が集中して、市場の構造の流れが速くなるような気がする。
その代わりに、無料で腹を満たすこと慣れた人たちが、腹を満たすだけの「無料」がなくなってしまい、飢餓に襲われると思う。
多分、「死んだり殺されたり」というのは、メディアでも受け手でも、今の「無料」や「与えられるもの」に無頓着になった人たちが、自分達が招いた時代によって「死んだり殺されたり」するんじゃないかな?
だったらやらなきゃいいだけなんですよ。
レベルの低い記事には何の価値も無く、
書いている奴の苦労なんて一切関係ないのです。